昭和48年10月02日 朝の御理解
御神訓 一、道教えの大綱
「生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ。」
「天に任せよ、地にすがれよ。」
「神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。」
生きても死にても天と地はわが住みかと思え。この天地より外に言わば行きどころがないのが私達です。魂の世界というても、やはり天地より外にはないのであります。天と地はわが住みか。その住みかをいよいよ有難い、安らかな住みかにするというところに信心がある。安らぎの御霊とか、又安心の生活とか信心によって日々を喜びの生活、いうなら、安心の生活。まあ光の生活。人間も御霊様も同じことです。
けれども人間の幸せ、御霊の幸その、幸になるための条件のすべてを身につけさせて頂くのが、しかも暗い住みかでなくて、明るい住みか、いわゆる安住の場というものを求めて行くと言う事が信心であります。ですから、成程誰の場合でも、生きても死にても天と地とはわが住みかなのですけれども、銘々の心掛け次第で、明るい不自由のない、安心のしかも喜びいっぱいの言わば、安住の地というかね、住みかを良い住みか処にとする事ができる。そこをおかげは和賀心にあるとおっしゃるのである。
同じ例えば住んでおりましても、それこそ針のむしろに座っておるようなと言う様な生活であったり、住居であってはいけないでしょう。住み心地の良い、心落ちつくためにも、おかげを頂かねば、生きても死にても、天と地はわが住みか、生きても死んでも天地の親神様の御懐の中にあるんだと言う事なんである。ですから本当に、成程、神様の懐の中にあるんだなと実感させて頂く生活が、安心の生活、喜びの生活又は光の生活と言う事が言えるでしょう。
そういういうならば、信心の理想郷というかね、理想的ないわば、住みか処に住まわせて頂くためにです、天に任せて地に縋るという信心を身につけて行かねばいけんのです。神様にお任せした生活。只なら、任せとけば良いという事ではなくて、いわゆる、地に縋れという修行が要るのです。もう、お願いしてるから、もう神様任せだから、親先生まかせだからというだけでは、余りもの信心。それだけでは、私は安住の地という有難い住みかに住むことが出来ないと思う。
天にまかして地に縋る。一切を神様にお任せをするという生活は素晴らしい。しかも縋る。例えば、成り行きを大事にするというても、その成り行きの時点、時点を大事にして行く事なのですけれども、それには、先ず成り行きを願わなければいけません。例えば私が受けられる、私が有難く頂けれる成り行きというものを、自分では受けられない、自分では力不足というよな事が成り行きの中に、例えば起きたとしてごらんなさい。もうそこで、青息吐息しなければ駄目でしょう。
だからその事を前に願わなければならん。それが地に縋ると言う事です。成り行きそのものを願わなければならない。そしてそこに現れてくるところの、成り行きというものを大切にして行かねばならない。天に任せよ地に縋れよ。そこでその内容として、心がけとして、どういう信心の日々進め方をさして頂いたら良いかと言う事が、神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じ事、と言う事になってくる。
孝子が親に仕えるような、心の状態でお道の信心は進めて行くんだと言う事。だから親に孝行しようと思う心、それも止むに止まれん心で、親に喜んでもらわねばおかんと言った様な心。そういう心がけをもって信心はするものだ。親に孝行するも同じこと。ですからもうこれは絶対ですね。絶対と思うですね。親に不幸な方、親に不幸をする人、親に孝行出来ない人がね、お徳を受ける事はだからまず出来ないと思う。
おかげは頂いてもね、それはどんな悪人であろうが、親不幸な者であろうがです、どんなおかげを受けて行っても、私はお徳を受ける事は出来んと思う。お徳を受けて行く、いわば根本のところは、神はわが本体の親と言う事が分らなければならない。これは段々わかって行く事であるけれども、もうすぐ感じられること、すぐ判らせて頂くことは、信心とは親に孝行するような心、そういう心で神様に向かわなければならない。
そこに成程、神はわが本体の親だなという、大変な事が実際感じられて来る様になる。その親そのものが天地である。その親の懐の中に安住しようと思うたらです、まず親孝行の信心が出来なければならない事が分りますね。天地はいわば私共の生きても死んでもの住居なのだ。又は親の懐なのだ。生きても死んでもやはり親の懐から出る事は出来んのだ。極楽も地獄も根の国も底の国も、やはり天地より外にないのだ。だから誰でも同じなのだ。けれどもです住み良い住居にするしないは、銘々の心がけなのだ。
銘々の信心なのだと言う事が言えるわけです。それをだから同じ住居の中にあっても、同じ屋根の下に生活しておっても、甲の人は有難い勿体ないというて生活しておる。乙の人はそれこそ、針の筵の上に座っておるような生活をしておる。心がけ次第なのです。それをまあ、仏教的に言うと、地獄極楽というのじゃないでしょうか。同じ天地の懐の中にあるのだ。それでいて極楽に住むひと地獄に住む人。火の車造る大工は居らねども己が造りて、己が乗るなりというわけである。
天地の中、そこでこの信心のいわば、姿勢というものがです、親に孝行する、例えばこういうならば、こうしたならば、親が喜んでくれるであろうという心。又喜ぶ事が分ったら、そうせねばおられない心、こういう生き方にならせて頂いたなら、神様が喜んで下さるだろうと思うた事を行ずる。そこに神様の喜びは、いや、喜びでないか、答えになって出てくるのが、心の上に感ずるもの。
又は形の上におかげに現れてくる事によって、あの事はこういう生き方こそが、神様にお喜び頂ける信心だとわかる。親孝行の信心、心がけてする信心とはこういうものだと言う事が分って来る。そこからですこれはもう理屈ぬきにして、成程神はわが本体の親ぞと言う様な、大変な事がこれは理屈でなしに分って来る。ですから頭が良いとか悪いとかでは信心は決まらない。誰でも受けられる。その様々な問題を、現実に踏んまえて、私共が難儀を感じたり、喜びを感じたりしておる。
そういう生き方にです、そういう受け方に、ここはもうどうにも人間の知恵力では出来ない事なのだから、いうならば障子一重がままならぬ人の身である。障子一重向こうのことが分らんのが、私なのである事が分って時にです、もう天に任せるより外にない。神様にお任せするより外にない。ならそげなふうで任せただけでよいかというと、そうじゃない。地に縋るところの信心をさして頂きながら、いわば縋って任せると言うところが信心には必要である。
しかもその根本の心はです、丁度孝子が親につくす心がけをもって向かわせて頂いておるうちに、成程神はわが本体の親だなあと言う事が分る。神はわが本体の親とわかるところからです、成程生きても死んでも、天と地は、わが住みかと言う事が分る。折角のその住みかを只、自分の心がけ次第で極楽に住む事も地獄に住まわなければならん事も、自分自身がつくるのだ。
生きても死んでも、天と地とはわが住みかと思え。これはお道の信心さして頂く者ののいわば死生観であります。というのが備わってくる。分って来る。理屈でなくてそれがわからせて頂ける。だからこちらに居っても、あちらに居っても、いうなら、この世に居ってもあの世に居っても、親の懐の中に抱きかかえられておる実感というものが、この世で感じられておる。成程、神様の懐の中だなあと感じさせて頂く。それが実感です。その実感がそのまま、あの世に持って行けるものである。
そこに成程、死というものが、暗いものでも悲しいことでもなくて、この安心さえこの喜びさえ持って行くならばです、あの世も決して淋しいことでも、悲しいところでも苦しいところでもないんだな、生神金光大神の御取次を、あの世でも頂きながら行けれるんだなということが、段々わかってくる。それが確信づけられてくる。それが私は死生は安心だという事になります。そういう大変な信心目標とでも申しましょうか、そういう目標を目指しての信心。
だから、様々なお互いが持っておるところの難儀とか困った事というのは、そういう大変な事をわからせて頂くことのための、まあ一つの飛び石つたいとでも申しましょうか、その問題を例えば、難儀と感じておったその難儀をね、神愛と例えばわからせて頂くところから、一つ一つが有難いものになってくる。この生き方で、あの世にも逝けれるんだ。そこで、なら私共は口で言えばこの様に容易いのでございますけども、実際問題としてはなかなかそれはそうは行かんのだ どんな問題でも。
それこそままよという心にならせて貰う事は楽なんだ。ならままよという心はどういう心かと言うと、静かで広い心だと言われる。なかなか静かで広い心では受けられない。そこに.修行がある。縋らなければおられないものがある。それこそ大海のような信心ということが、静かで広い心であるけれども、やはり海の水は辛いと言う事になってくるのじゃないでしょうか。私も昨日から、本当を言うたらこうして物を言いたくもないようなくらいに心の中に海の水は辛いなあと感じておる事があるのです。
けれども心はおかげで静かです。成程広い心でです、けれどもやはり海の水は辛いなあと。昨日から今日にかけて感じとります。それが修行なのです。ままよと言う心になったら、楽という事じゃありません。静かにしておれる。広い心でそれを受けておれると言う事は、どうもないと言う事じゃありません。やはり人間ですから、生身を持っておるのですから、叩かれればやっぱり痛いのです。けれどもそれを静かな広い心で、辛抱する事が出来るというだけの事です。
海の水はやはり辛いのです。そこんところをです、言わば、地に縋るという信心を身につけさせて頂いて、しかも親孝行のいわば心、それも止むに止まれん親に喜んでおらわねばおかんというような心で、そういう信心が身にだんだんついてくるところにです、神はわが本体の親ぞという、まあここんところを理屈でいうなら、随分な理屈が生まれてくるでしょう。けれども理屈抜きにして、なるほど神様は親様じゃなあという実感の中に生活をさしてもらう。
しかもなら、それは生きても死んでもであるために、いよいよ一切のことを天地に任せて地に縋れる信心。昨日から又昨夜にかけて頂いておりますように、痛いのが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なのが有難いのぞと言う様な、信心を分らせて頂いて、成程そういう厳しい、例えば私の方の孫が二階から落ちた話を致しましたが、成程二階からあんな高いところから落ちておりながら、それこそかすり傷一つしていない。痛かったところがなかった証拠に、ギャア-と言う様な泣き方もしなかった。
只、ショックですかね、びっくりしてああというて泣いただけであった。それを私はとてもとても只事ではない。神様がこうやって受けておって下さったというより外に表現のしようがないというわけです。それをなら久留米の佐田さんはそれを聞かれて、本当に私の方佐田さんの家でもです、例えば恵介君一人の場合であっても、三間もある下は石ばっかりのところへ落ちながら、かすり傷一つしていなかったとか、もう本当に瞬間のところでです例えば、高い所から落ちなければならんところを助かった。
そういう事が何回もあった事実を思い浮かべて、そういう神様の、例えばそういう働きを、平穏無事の時にも下さってあると言う事が分った時にです、初めていつも壮健なのがどのように有難い事かと言う事が分ったというのです。今日は大変なおかげを頂きました。広大なおかげを頂きましたという時だけが有難いのじゃない。それと同じ働きが、平穏無事の時もあっているんだ。それを悟らして頂くことが、いつも壮健なが有難いのだと言う事になる。
だからいつもその感動的な有難さというものの、ご恩恵の中にあるんだと、いよいよ実感としてわからして頂く信心を、いよいよ身につけて行って、はじめて生きても死にても天と地とはわが住みかと思わせて頂けるような理屈ではない、そう感じられる。又事実おかげの中にもです、成程私は極楽の世界に住んでいるなという喜びを、この世で感じさせて頂いてこそ、あの世での極楽が約束されるのだ。
してみるとあの世に行くこともです、いつならお迎えが来てもです、いわゆる安心という死生観も生まれてきて、あの世この世を通して、有難いという生活に入って行くことが出来る。そういう道を宗教は説く。いやそういう道を金光大神は教えて下さったのである 只、おかげを頂くこつあいを覚えただけでは信心にはならん。今日私が申しましたようなところをです、いよいよ血肉にして行くところに信心の修行の焦点というのが分らなければならんのですよね。
どうぞ。